三休橋筋が現在のような「ガス燈のあるプロムナード」として整備されたのは、2003(平成15)年、大阪市が三休橋筋において無電柱化に着手したことにはじまります。
立間康裕さんは、2003年から2年間、大阪市建設局の道路建設課長として、地元住民をはじめとするさまざまな人びととの意見交換を重ね、三休橋筋の電線の地中化や、それに伴う歩道の拡幅、街路樹の植樹、ガス燈の設置といった、その後約10年続く整備事業の立ち上げに携わりました。

「三休橋筋との出会い」
船場の真ん中におもしろい道路を

1974(昭和49)年に大阪市に入職し、歩行者用道路や自動車道の整備にはじまり、商店街のカラー舗装や都市計画道路の施工など、さまざまな規模の道路整備に数多く携わってきました。

2002年、当時の土木部長より「船場の真ん中に地区の核となる道路を作りたい。そして、これからの新しい市民参加型の道路整備の手法を考えてほしい」という話があり、その後道路建設課長として三休橋筋の無電柱化事業に携わることになりました。無電柱化事業は、1999年に北新地の曽根崎新地本通を担当したことがありましたし、これまでの実務経験が買われたようです。

バブルが崩壊して約10年。都市の活力が失われていくなか、2002年に国が定めた「都市再生特別措置法」により、大阪駅周辺・中之島・御堂筋周辺地域が「都市再生緊急整備地域」のひとつに指定されました。さらに船場地区は、「水都再生」をテーマとする「都市再生プロジェクト」の指定地域にも含まれています。三休橋筋の無電柱化は、このような大阪の大規模な都市再生整備事業のなかでおこなわれていたと考えてよいでしょう。

「三休橋筋のまちづくり(1)」
沿道の組織が必要だ!

三休橋筋の沿道にはおもしろい建物がたくさんあって、環境や品格においても良質で、船場地区の将来的な整備事業のモデルケースになるような道路になることが期待できました。その為平日はもちろん、土日も朝昼晩、とにかく現場を見て歩いたことを覚えています。どんな街並みなのか、どんな人が働いているのか、どんな交通上の課題が有るのか……。

また、無電柱化事業は電気や通信などの整備もともなうため、各種インフラ企業との協定や、地域との合意形成が必要です。今回はさらに踏み込んで、整備後の活用方法など構想段階から地元の方々とお話しをしながら練り上げていくことを考えました。しかし、三休橋筋は6つの連合町会の境目に位置し、沿道そのものにも窓口組織がなく、意見や要望を聞こうにもそれぞれの町会に伺わなければなりません。そこで、地元の意見をひとつにまとめるための組織づくりからはじめることになりました。連合町会長や学識経験者も参加する「整備検討協議会」による意見集約を前提とし、町会や地元の方々をはじめ、「三休橋筋愛好会」のようなまちづくりグループやコンサルタント、研究者の方々にも参加いただき、道路整備に関する意見交換会を何度も行いました。

意見が熟成され、人びとがひとつにまとまっていくには、一定の年数が必要です。時には私たちがあえて悪者になることで、意見が対立していた人びとが一緒になってこちらを責めてくるぐらいにならないと、なかなかまとまらないものです。

加えて、核となる人物の存在も不可欠です。意見交換会を通じて、和田哲株式会社(現・ワテックス株式会社)の会長だった和田亮介さんや株式会社ヨシムラの吉村さん、株式会社モアイの井上さんをはじめとする方々と出会いました。そういった方々が中心になり、2004年に三休橋筋の団体である「三休橋筋発展会」が発足。翌年には、それを基盤として「三休橋筋商業協同組合」が設立されました。

「三休橋筋のまちづくり(2)」
出来るかぎり働きかける

道路整備について地元の方々と一緒に考えていくといっても、私たちも手探り状態。実現の可能性はさておき、私たちにとっても勉強になりますので、できるかぎり問い掛けをして声を伺うことにしました。

拡幅する歩道の幅員や、停車帯の間隔と位置など、道路構造や道路規制に関わるようなことは私たち行政が主になって決め、歩道の舗装材や植樹する樹種などは、地元の方々の意見をいただきながら、整備案を取りまとめていきました。舗装材はサンプルを作ってワークショップを開きましたし、樹種は市内視察をした後、三休橋筋の北端に架かる栴檀木橋に因み、センダンに決まりました。ちょうどこの頃、大阪ガスが100周年事業でガス燈の寄贈先を探しておられ、地元からも三休橋筋にガス燈設置を!という声があがってきました。大阪市建設局、大阪ガス、三休橋筋商業協同組合の三者でガス燈の維持管理も含め、それぞれの役割を協議することで2006年に設置が実現しました。

三休橋筋の整備計画を取りまとめ第1次の工事発注の後、2005年からは計画部長として阪神なんば線の整備に携わることになりましたが、異動後も三休橋筋の整備事業は地元の方々との意見交換を重ねながら、約10年をかけて完了しました。

2006年11月におこなわれた舗装材料選定ワークショップの様子

「三休橋筋の未来」
思いを引き継ぎ、管理と活用を続けていって欲しい

私にとって三休橋筋は、実務として関わった最後の現場で最後の「作品」のような思いがあります。三休橋筋は、ガス燈のあるプロムナードとして名の知れた道路になりましたし、三休橋筋商業協同組合を中心に、地元の方々が定期的に清掃活動をおこなっておられます。事業に携わった者として、地元の方々に喜んでいただき、きれいに上手に使っていただいているのはとても嬉しく思います。

ただ、この地区には「船場建築線」が残っており、この三休橋筋や備後町通りを参考に、またHOPEゾーン事業とも連携しながら地域と一体になって制度を活用し、より良い道路利用による活力ある地域となっていって欲しいと期待しています。

意見交換会や勉強会を何度も開いたのは、大阪市の若い担当者に、この仕事を伝承したいという思いもありました。ただの道路整備ではなく、地元の人びととの意見交換を通して地域へのモチベーションが上がったり、新たな発想が生まれたりと、事業に対するやる気も見せてくれました。今では他の船場地区内でも無電柱化・道路整備もおこなわれ、近年では道修町通でも進行中です。これからも、三休橋筋をはじめとする船場地区の整備が、私たちの思いを引き継いで、地元の人びとと共にあることを願っています。