明治29年(1896年)、中許忠和さんの曾祖父・中許栄之助さんが船場の地に創業した「ヤラカス舘」。繊維業や呉服屋の引札や漆看板といった印刷や宣伝広告を手がける会社でした。明治35年(1902年)、三休橋筋と瓦町通に面した現在の場所に移転。幾度かの増改築を経て、1991年に竣工した「ミラータワービル」を本社ビルとして構えています。その事業は明治時代の印刷から、デザイン、企画、マーケティングと、変わりゆく時代に合わせて進化を続けてきました。
四代目社長を30年間務めた忠和さんは、2016年に社長を娘婿の将一さんに譲り、会長に就任。2018年には社名変更が行われ、コンサルティングファームを主事業に据えた「株式会社YRK and」となりました。社名は変わっても「なんでもやらかす、人のやらないことをやる」という創業からの精神は、今も変わらずに受け継がれています。
「三休橋筋との出会い」
発祥の地で後継者として
初代・栄之助の時代は、船場のどこの商店でも職場と住居が一体になっていましたが、私は、父・忠夫の代に移り住んだ阿倍野区の北畠の生まれです。両親からは、船場の四季折々の風習や商いの作法を叩き込まれながら育ちました。「始末・才覚・算用」という船場商人の原則はもちろん、「商売は牛のよだれ」「石橋叩いて、もいっぺん叩いて渡れ」「立ったらこける。ほうてたら(這っていたら)こけへん」など、言い出したらキリがありません(笑)。
船場に通うようになったのは、学生のころ。ヤラカス舘でアルバイトをするようになってからです。小学生の時から、将来はヤラカス舘で仕事をすることを当然のように考えていたんです。しかし、他の会社でも経験を積んでみたくなり、1970年に大学を卒業後、初めて就職したのは、ヤラカス舘の近所にある小泉産業株式会社でした。照明器具や家具を扱う会社で、マーケティングやプロモーションに力を尽くしました。
ところが突然、父からヤラカス舘に「戻ってこい」と呼び戻されました。1972年、小泉産業に就職して3年目の時です。ヤラカス舘では、東京拠点の立て直しや生産管理の合理化などに取り組み、1986年に創業90周年に向けたわが社の「新創業計画」を立案して、その次の年に代表取締役社長に就任しました。
「三休橋筋の魅力」
「母屋」のあるこの街を大切に
わが社の創業地は船場です。発祥の地に足を着けていないと、なんだか居心地が良くありません。この場所で長年事業を続けているという、信用もいただいておりますし、なんといっても「母屋」がある、帰る家があるというのは大変ありがたいことです。船場で育てられたから、この街を大切にして、この街に納税をする。そうしていくのが、船場人の心意気ですよ。だから、やっぱりこの地に本社を置いておかないとあかんだろうと思います。
現在の社屋ビルは1991年の完成です。父の忠夫がこのビルを建てる時に、船場には休める公園がないので、みなさんが休憩してコーヒーの一杯でも飲んでもらえるように、この街のお役に立てるようにと、公開空地として三休橋筋沿いに憩いのスペースを設けました。ゆとりか余裕か無駄か、この3つのバランスをとるのは難しいですが、心のゆとりは、ビルのコンセプトにも盛り込まれています。
「三休橋筋界わいの移り変わり」
「ガス燈のある街」に至る、ふと思いついた一言
大阪市のプロムナード構想により、三休橋筋にはガス燈が55本設置されました。この設置の実現には、どうも私の発言が一役買っているのだそうです。実は、本人はあまりよく覚えていないんです。まちづくりの会合に民間代表として出席した時、「どんな町並みにしたらよいか?」という問いに「ガス燈なんかがあったらおしゃれやな」と言ったらしいのです。
この思いつきの一言と、ちょうど大阪ガスさんが創業100周年を記念して、ガス燈をどこかに寄贈したいというお話が、タイミングよく重なりました。ガス燈の設置は2007年より始まり、株式会社ヨシムラの吉村さん、株式会社モアイの井上さんはじめ多くの方々のご尽力により、2014年にすべて完了しました。このガス燈の管理を活動の一環とするのが「三休橋筋商業協同組合」で、私は専務理事を務めています。三休橋筋のクリーンアップも組合で行っており、わが社も清掃活動に積極的に参加していますし、大阪市の建設局や東警察の方々にもご協力いただいて、自転車の整理などが行われています。
「三休橋筋の未来」
三休橋筋で紡ぐ「中船場」のストーリー
プロムナード整備により、三休橋筋は歩きやすくなりましたし、クリーンアップ活動も定着しつつあります。さらにガス燈ができたことにより、まち歩きなどのイベントも活発化するようになりました。行政はハードをつくってくれました。それらを生かす、ソフト面のさらなるアイデアが必要です。それを民間の企業や地域団体、住民の方々などで力や知恵を出し、協力し合いながら、個々をつなぐひとつのストーリーをつくることができれば、街としてのブランドが育っていくでしょう。
船場地区を北・中・南で三分割すると、「北船場」は北浜を中心としたブランドが定着しつつありますし、「南船場」は心斎橋と一体化されておしゃれな街になっています。その中間、わが社や綿業会館のある「中船場」が空白地帯になっているように思えるのです。
三休橋筋は船場のど真ん中を南北に貫く筋。この地の利を生かして中船場を盛り上げていけないでしょうか。最近はマンションが増え、昼夜人口や、居住人口と就業人口の差が狭まりつつあります。個人の納税も増えてきましたね。かつての船場のような、職住一体の特徴ある街。きれいで、静かな品のある、昔に帰れるような、そんな「中船場」のイメージがつくれたらいいですね。
「人のやらないことをやる」は商売の原点です。しかし重要なのは、やり続けることです。思いつきも、練るとアイデアになる。中船場のストーリーを三休橋で紡いでいけたらと思います。