昭和10年(1935年)、祖父である進藤兼市さんが三休橋筋に江戸焼うなぎの店「福梅」を開業。父・輝夫さんの時代を経て、現在もずっと同地で祖父の味を守り続けている進藤雅彦さんは、この街で生まれ育った生粋の船場人です。
祖父の兼市さんは九州出身で、お兄さんが三休橋筋で青果商「八百梅」を始めて成功していたのを頼って上阪、八百梅の筋向かいで商いをすることにしました。そして、東京・日本橋の老舗「髙嶋屋」で修業をし「福梅」を開いたのです。以来、ふっくらとした「福梅」のうなぎは、船場に住む人々やビジネスマンの口福を満たしてきました。
「三休橋筋との出会い」
この街の人々みんなに育ててもらったようなもの
「福梅」は家族経営の店で、仕入れから調理、接客、経理まですべてを家族で分担しています。私は昭和40年(1965年)生まれですが、小学生の頃から出前の手伝いをしていました。家の商売の手伝いをするのは、当たり前のことでした。当時は、大企業のビルも今ほどセキュリティが厳しくなく、道修町の製薬会社から北浜の証券会社、南船場の繊維問屋まで、どこでもほぼ顔パスで入れましたよ(笑)。
飲食店同士のコミュニティもあって親同士も仲良しでした。特にうちは母が御霊神社近くの天ぷら屋さんからお嫁に来ていたので、地元とのつきあいも長く、街の皆さんは私の顔も覚えてくださっていました。父は社交的な人で野球が強く、飲食店で組んだ野球チームにも参加していて、他業種チームとの対抗試合なんかもありました。三休橋筋界わいは、街全体がアットホームな雰囲気で、私はこの街の人々みんなに育ててもらったようなものです。
「三休橋筋の魅力」
大阪のシンボル的な建築がすぐそこに。ランドマークのある街
今とは歩道の幅も街路樹の木の種類も違いますが、私が小さい頃から三休橋筋は歩道が整っていて、街路樹が植えられていました。周囲にはたくさんの商店があっていつも賑わっていましたよ。御堂筋と堺筋に挟まれた間にあるどの道よりも歩きやすいし、雰囲気が良くて大好きでした。街路樹はすべて栴檀の木に植え替えられて、ガス灯が連ねられて、ますます美しい街になりました。
三休橋筋の北には中之島への通路である栴檀木橋が架かっていて、その奥には国の重要文化財である大阪市中央公会堂が建っています。この地区で唯一残った小学校、大阪市立開平小学校の記念誌『わが町 船場-いま・むかし-』に、うちの屋上から撮った写真が掲載されたんです。まっすぐに延びる三休橋筋の真正面に中央公会堂が堂々と建つ写真を見たら、本当にいい街だなと改めて思いました。大阪のシンボル的な建築がすぐそこに見える。そんなランドマークのある街を大切にしたいですね。
「三休橋筋界わいの移り変わり」
時代の変化をはっきりと感じます
三休橋筋界わいが変わっていく様子を小さい時から見ていますので、一言では言い表せないほど複雑な思いがあります。
私が子どもの頃は、船場は住み込みで働く家族が多かったんですが、時代とともにそれらの商店や問屋がどんどん企業のビルに変わっていきました。それが、最近では高層マンションになってきているんです。街の人口は一時急減し、小学校も次々に閉校になりましたが、最近はマンションが増えたために、再び増加に転じています。
子どもを自転車に乗せて走る若いお母さん、犬を連れて散歩する人、子どもを預かる幼稚園が増えましたし、若者も一時期よりずっと多くなりました。この地域に新規で店舗を開業しようとする人も多いですね。店にお客さんでいらっしゃって、意見を求められることもあります。
ただ、いくら住民が増えても個人のつきあいは昔に比べるとすっかり薄くなりましたね。コロナ禍以降は会社に通勤する人が減って、昼間の人口が減っています。商売をしていると、そういう時代の変化をはっきりと感じます。
「これからの三休橋筋」
三休橋筋や船場という地名がもっと広く知られてほしい
三休橋筋や船場という地名が、もっと広く知られてほしいですね。街自体のブランド力や発信力を上げていくことが、この街の発展や未来にもつながっていくと思います。そのためには、ある程度の基準やガイドラインを作り、それに沿った景観や街づくりをするように行政の方で指導してもらえるといいのではないでしょうか。
また、この街で暮らし、店舗を経営している立場として感じるのは、新旧の住民と、商店、企業などが、かつての船場にあったような人間味のあるつながりを回復できないかということです。
人の暮らしや街の発展のベースになるものは、小学校ではないかと思うんです。実際この街に住んでいる子どもがいて、その親たちがいるわけですから。そこから波及して街を盛り上げていくのが自然な姿ではないでしょうか。
学校と、商店や企業がお互いにその存在を示し合うことが第一。それが、やがて三休橋筋に愛着や特別な思いをもつ子どもたちを育て、増やすことにつながっていくのではないかと思います。そうした地元愛のある子どもが増えれば、街の活気にもつながるのではないかと。自分の子ども時代を振り返ると、そんな風に思えるんです。