三休橋筋について
三休橋筋は、船場のまちの真ん中を南北に貫く約2㎞の道。船場は、1583年(天正11年)、豊臣秀吉による大坂城を築城にあわせ、城の西側の砂州を埋め立てて生まれたまちです。四方が運河で取り囲まれ、碁盤目状に整備された船場では、南北に抜ける道を「筋」、東西の道を「通」と呼んできました。城下町からやがて商都となった船場、三休橋筋には明治時代から昭和初期のモダンな近代建築が今も残っています。
三休橋筋の名称は、「三休橋」という橋の名前に由来します。橋は三休橋筋の南端にあり、長堀川(現在の長堀通)に架かっていました。長堀川は1662年(元和8年)に有力町人によって開削された運河で、三休橋は貞享年間(1684—1688年)には架けられていたとされます。橋の名前は、それ以前に架かっていた長堀橋、中橋、心斎橋の交通量を減らし、三つの橋を休ませるという意味で名づけられたといいます。近代以降は、大阪市電の停留所名としても三休橋の名前は長く親しまれたようですが、1964年(昭和39年)、長堀川の埋め立てに伴って橋は撤去されました。
一方、三休橋筋の北端には「栴檀木橋」が今も土佐堀に架かっています。この橋に近い、北の方では、筋の名前は三休橋筋ではなく「栴檀木橋筋」と呼ばれてきました。
1925年(大正14年)、大阪市は市域を拡大、「大大阪」の時代を迎えます。急速な工業化と流入人口の増加に伴い、交通量が増え、都市計画によって御堂筋が拡幅されます。三休橋筋は、この御堂筋とそれまでの幹線道路だった堺筋とのちょうど中間を抜ける道であり、1926年(大正15)、御堂筋の拡幅と同時期に街路が拡幅されました。
2002年(平成14年)、三休橋筋の電線を地中化する計画が大阪市で始まり、地元との意見交換会をしながら官民協働で道路整備が進められました。歩道の拡幅、街並みに似合うガス燈の設置、そして栴檀の木橋にちなんでセンダンが街路樹として植えられ、2007年に第一工区の工事が完了、ガス燈に火がともされました。2013年(平成25年)無電柱化が完了。2014年(平成26年)6月3日、55基のガス燈が全灯しました。
こうして、ガス燈のあるプロムナード、三休橋筋は、船場のシンボルロードとなったのです。
三休橋筋商業協同組合について
船場では、東西の「通り」の名称の多くは「町名」と同じで住居表示にも使われているため、なじみがありますが、「筋」の名前は幹線道路である御堂筋、堺筋以外はあまり知られていません。さらに、三休橋筋は、周辺の町会や振興町会の境界線上にあたるため、沿道の店舗や企業にとっては、一つのまちという意識があまりなく、商店会などの地元組織はありませんでした。
2000年ごろから船場地区では、「三休橋筋愛好会」などいくつかのまちづくりグループやネットワークが生まれ、相互交流が始まります。2001年に設立された「船場ギャザリング」の中から、三休橋筋の魅力を高めようと立ち上がった経営者や企業の社員が現れます。2003年、三休橋筋の道路整備の意見交換会などを通して、地元組織の設立に向けて動きが生まれました。
2004年3月9日、三休橋筋の地元商業団体「三休橋筋発展会」が設立されました。翌月、三休橋筋発展会と三休橋筋愛好会による「三休橋筋フォーラム実行委員会」の主催で、「大阪の未来図を語る—せんばの背骨・三休橋筋フォーラム」が開催されました。
2005年7月28日、三休橋筋発展会を基盤とし、さらに沿道の企業に参加を呼びかけて、「三休橋筋商業協同組合」を設立しました。
2004年4月13日、大阪市立中央区民センター2階ホールで「大阪の未来図を語る—せんばの背骨・三休橋筋フォーラム」を開催。安藤忠雄氏(建築家)による基調講演につづき、安藤氏、岩本康雄氏(当時・大阪市計画調整局長)、橋爪紳也氏(当時・大阪市立大学助教授)による鼎談。参加者550名。
最近の主な活動
-
「三休橋筋国際写真学生フォトフラッグ展」2019年4〜7月
-
世界10カ国34名の写真を学ぶ学生の作品をフラッグにして、ガス燈に展示しました。
-
「三休橋筋オンラインまち歩きツアー」2020年11月22日
-
船場博覧会で毎年開催しているまち歩き、は、新型コロナ感染症対策として、オンラインでまち歩きツアーをライブ中継しました。
-
「ガス燈バナーでエール」2020年11月20日〜2021年12月
-
道修町で行われる神農祭の出店が、コロナ禍により中止となる中、祭りの時期に青色のバナーを掲出。「Thank You」と一年間、医療従事者へエールを贈りました。
-
「船場のレッドカーペット・ガス燈灯る夜の三休橋筋まち歩き&グルメ」
-
11月19日、「船場博覧会」に参加。三休橋筋愛好会と共にまちを案内、綿業会館での食事会も実施しました。